NPO法人だて観光協会

伊達家について

伊達開拓のはじまり


伊達という地名は、独眼竜で有名な伊達政宗の流れをくむ亘理伊達家 伊達邦成(くにしげ)がこの地を開拓したことからつけられたものです。 伊達邦成は仙台藩亘理領の殿様でしたが、仙台藩が官軍に対する謀反の罪を問われ、実高112万石と言われた禄高が28万石に減らされ、伊達邦成の亘理藩も2万3000石から玄米130俵に減ぜられ、家臣たちを養うことができなくなりました。 そうした中で、元家老常磐新九郎(のちの田村顕允)が、亘理伊達家家臣全員によるえぞ地移住開拓の計画を進言。伊達邦成はこの計画に賛同し、常磐新九郎が上京、太政官小弁渡辺昇の計らいで開拓の請願が通り、明治2年8月25日、邦成に対して胆振国内有珠郡支配の辞令が発せられました。



海を渡った武士団

肥沃で温暖な土地である「シュム・ウン・モンベツ」(アイヌ語で「まちの中央を流れる川」)を新天地に選定し、家臣一団となって開拓事業を開始、他の開拓地とくらべ気候風土の良さはありながらもその事業進展は一筋縄ではいきませんでした。 未開地であった原野を耕す事業に日々追われたほかアイヌと倭人のいさかいも絶えません。 社会機構が経済工業化に移行しつつあるなか、古い武家商法だけでは経済がうまく立ち回らないために様々な試行錯誤が行われ徐々に伊達も近代化をしていきます。

リンク

噴火湾文化研究所HP 北海道の歴史

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